愛姫の子孫たち

愛姫の供養

愛姫は、承応2年(1653)正月に江戸で86歳の生涯を終え、豊臣秀吉の命で京都に上って以来63年ぶりに東北の地に帰り、松島の陽徳院に葬られました。

その夏、嫡男で仙台藩主の伊達忠宗が仙台へ下ると6月に法要を営み、三春の泰平寺(現在の田村大元神社)も法華経8巻を奉納し、翌年正月の一周忌法要は3日間に渡りました。

この年、雲居和尚の発願により、瑞巌寺の前身・円福寺開山の法身性西の木像が造立されました。その際、愛姫や五郎八姫の近くに仕えた延べ105人が、毛髪や爪、骨、歯といった身体の一部や、経本、数珠などを胎内に納める作善を行い、愛姫の菩提と自身の供養をしました。

五郎八姫はこの時、政宗秘蔵の銘香「柴舟」の一部を納めるとともに、陽徳院に梵鐘を奉納し、亡母を供養しています。

愛姫の子どもたち

政宗には側室の子を含めると、14人の子どもがおり、そのうち愛姫の子は三男一女でした。その長女・五郎八姫は、徳川家康の六男松平忠輝に嫁ぎますが、大坂の陣後、夫が改易されて伊達家に戻り、仙台城の西で暮らしたことから、西舘と呼ばれました。長男の忠宗は、政宗の跡を継いで第二代仙台藩主となりますが、二男の宗綱は16歳、三男の竹松丸は7歳で亡くなりました。

愛姫の死から5年後の1658年、6月に政宗の長男で宇和島藩主だった秀宗が68歳で、7月に忠宗が60歳で亡くなります。続けて兄と弟を失った西舘は、落飾して松島に天麟院を開きますが、翌年には、忠宗正室の振姫や敬慕していた雲居和尚も亡くなり、1661年に西舘自身も68歳で亡くなり、天麟院に葬られました。

愛姫の孫たちと伊達騒動

忠宗は、徳川秀忠の養女である正室・振姫との間に2人の男子がありましたが、長男・虎千代が7歳で夭逝したため、次男の光宗が嫡男となりました。側室の子である三男の宗良は、政宗の寵臣・鈴木元信の名跡を継ぎますが、愛姫の死後、その遺言により田村家を再興しました。

その後、光宗も急逝したため、別な秀忠の養女から生まれた六男の綱宗が嫡子となり、忠宗が没すると19歳で家督しますが、酒に溺れた綱宗は2年後に幕府により隠居させられます。そこで、前年生まれた綱宗の子・亀千代(綱村)が跡を継ぎ、後見人として政宗の十男で一関藩主だった伊達宗勝と田村宗良が選ばれ、宗良は3万石の岩沼藩主となります。

しかし、1671年に伊達家中の勢力争いが幕府に露見し、江戸の大老・酒井邸で家臣の審問をしていると、原田甲斐が柴田外記らを斬殺する事件が起き、騒動の責任をとって宗勝が改易、宗良は閉門となります。その後、成長した綱村は藩主権力の強化に努めますが、これがさらに混乱をまねいたため、1703年に隠居させられると、忠宗の八男の子・吉村が五代藩主に就き、仙台藩はようやく安定した時代を迎えます。

一関藩主田村家

宗良の死後、その子・宗永は1681年に3万石の一関藩主となり、1692年に田村家の通字を用いて建顕と改名すると、幕末まで養子が多いながらも11代が続きました。

一関藩は、仙台藩の一部を分知した伊達家の分家ですが、独立した藩です。このため、江戸にも独立した屋敷を持ち、奇しくも秋田家三春藩の愛宕下屋敷(港区西新橋)の北側に隣接していました。「忠臣蔵」として有名な浅野内匠頭長矩の江戸城刃傷事件では、奏者番で江戸城に詰めていた田村建顕が、長矩をこの屋敷に預かり、徳川綱吉の命で即日切腹となったため、屋敷跡には「浅野内匠頭終焉之地」という大きな石碑が建っています。

一関には、宗良が岩沼に開いた大悲寺を、建顕が宗良の生母・房の法名に改めて移した臨済宗の祥雲寺があります。境内には、京都の坂上田村麻呂の墓を模した墳丘墓があり、田村家の菩提を弔うとともに、田村家顕彰記念館や浅野長矩の供養塔もあります。

こうした愛姫がもたらした貴重な縁を大切にし、継続的に広げていくことが、愛姫や田村氏の供養にもつながるかと思われます。

西新橋の田村家屋敷跡に建つ「浅野内匠頭終焉之地」石碑