愛姫の暮らし

江戸の屋敷

慶長8年(1603)、愛姫は江戸へ移りました。伊達家は江戸で、日比谷門北の桜田(現在の日比谷公園)に政宗が暮らす上屋敷と本屋敷、そして、愛宕下(現在の西新橋)に中屋敷、芝の増上寺北側に下屋敷を拝領しました。愛姫がどこに住んでいたのか正確にはわかりませんが、当初は上屋敷に政宗・愛姫夫婦と愛姫の子どもたち、本屋敷に長男の秀宗が暮らし、他の側室や子どもたち、さらに多くの家臣たちは中屋敷や下屋敷に暮らしていたと想像されます。

そして、長女・五郎八が1606年に越後高田(上越市)の松平忠輝の元へ嫁に行き、1614年の大坂冬の陣後に秀宗が宇和島藩主として独立し、1617年に池田輝政の娘・振姫を徳川秀忠の養女として嫡男・忠宗の正室に迎えます。この間、1616年に松平忠輝が改易され、離縁した五郎八が伊達家下屋敷でしばらく暮らしますが、1620年には仙台に下りました。また、田村家の改易後、実家の相馬に戻った愛姫の母も1602年に仙台に引き取られ、仙台城の北側の屋敷に暮らしたことから「於北の方」と呼ばれ、これに対して五郎八は「西舘様」と呼ばれました。愛姫も「北の方」と呼ばれており、江戸の屋敷内で北側に暮らしていた可能性があります。

その後、伊達家は1641年に下屋敷を芝から汐留の浜屋敷に替え、明暦の大火後の都市再編により、桜田の代わりに麻布や品川に屋敷を拝領し、浜屋敷が上屋敷になります。愛姫は政宗の死後、下屋敷で隠棲しますので、芝や汐留の屋敷で暮らしたものと考えられます。

桜田屋敷跡(日比谷公園北東部分)

芝屋敷跡(芝公園)

浜屋敷跡(汐留・日本テレビ周辺)

愛姫の暮らし

愛姫は、夫・政宗と別の建物で暮らし、使う家来も別々だったといいます。政宗は、毎月1日、15日、28日と各節句の日に、正装で愛姫の元を訪ねました。愛姫は、坂上田村麻呂の末裔なので上座に座り、3間ほど下がった縁側近くに政宗が座って、食べ物や飲み物も愛姫が口を付けてから食べました。愛姫は、政宗を茶の間口まで迎えに出て、帰る時は門送りして一礼の後、名代を遣わすというとても儀礼的な面会でした。こうした正式の面会のほかに、もっとくだけた面会もあったと思いますが、普段もそれぞれの侍女を通した手紙で対話し、五郎八の離縁後は、愛姫の発案で一緒に寝ることはなかったといいます。

また、伊達家では正月や節句等のお祝いに、将軍家などへ献上する大量の服を仕立てる必要がありました。愛姫は、広大な裁縫座敷にたくさんの女中たちを集めて分業で縫い物をさせ、その正面中央に陣取って製造ラインを統括しました。
また、火事の時は、脱出用の乗り物を待機させた上で、脇に長刀を立て、守り刀を持って挟箱に腰を掛け、女中たちの消火の指揮をし、こんな時は恐ろしいほどの威光で近寄りがたかったといいます。