愛姫の旅立ち -愛姫の嫁入り-

輿入れの決定

会津の芦名氏と茨城の佐竹氏が手を結んだことで、田村清顕は敵に囲まれ孤立します。この頃、伊達家に愛姫より1歳年上の男子がおり、2年前に元服して伊達家中興の祖である第9世政宗の名を授かり、並々ならない器量だという話が清顕の耳に入ります。そこで清顕は、北の伊達家と盟約を結ぶことで窮地を脱したいと考え、伊達家に娘を嫁にやりたいと使者を送りました。

これを受けて、伊達家では会議が開かれます。田村家はほかの大名たちと敵対しており、縁組すれば伊達家も怨まれるので、やめた方が良いという意見が主流でした。しかし、当主の輝宗は、清顕は小勢だが、大軍を受けてもよく戦い、これまで負けたことがない。これほどの武勇の者を我が子の岳父にできれば、うれしい限りだとして、愛姫の嫁入りを承諾しました。

嫁入り道中

天正7年11月28日(1579年12月25日)が結婚の日と決まり、2か月程度で準備をし、わずかな従者を伴って12歳(満11歳)の愛姫は三春を発ちます。道中はおおよそ現在の国道349号線沿いを北上したようで、田向館(旧東和町)で最初の宿を借ります。田向館は小手森城主・菊池顕綱の居館で、顕綱は愛姫一行を手厚くもてなしました。しかし、この6年後、小手森城は政宗や清顕の軍勢に攻められ、周辺の住民や馬・犬に至るまで、数百人が撫で斬りにされ、菊池一族は滅ぼされました。

伊達領に入った川俣で休憩すると、一行は梁川へ向かいました。梁川では、伊達家の重臣伊達成実、遠藤基信らが、甲冑の上に礼服を着て出迎えました。田村家から随行した向館内匠が、水晶の数珠を取り出し「水晶の玉のようなる子をもって」と祝うと、基信が「末繁昌と祈るこの数珠」と歌を返し、輿が引き渡されたといいます。

その後、雪深い板谷峠(現在の国道13号線付近)を避けて、小坂峠(国見町)から七ヶ宿(宮城県)に入り、二井宿峠を越えて出羽(山形県)に入ったといわれます。途中、1・2泊していると思いますが、詳しくはわかりません。なお、米沢に無事たどり着いた愛姫ですが、正式に結婚したのは、2年が過ぎた天正10年の正月といわれています。

愛姫の輿入れのルート図