愛姫を取り巻く戦国の情勢

戦国時代の南奥羽

戦国時代の福島県周辺は、たくさんの大名や郡主とも呼ばれる小規模な国人領主により、細かく分割されていました。
主な領主を挙げると、浜通り(海道)は相馬氏と岩城氏。中通り(仙道)は伊達氏、畠山氏、大内氏、伊東氏、二階堂氏、石川氏、結城(白川)氏。会津はおおよそ芦名氏の勢力下にありました。これらの領主たちの多くは、源頼朝が平泉の藤原氏を攻め滅ぼした戦いの恩賞として、鎌倉幕府から領地を与えられたものです。これに対して三春の田村氏は、正確な出自はわかりませんが、地元の有力者が実力で勢力を拡大し、戦国大名にまで成長したようです。

15世紀代は、白河の結城氏が最も有力な大名でしたが、内部抗争で次第に没落し、16世紀になると伊達氏と芦名氏が力をつけたため、仙道の小領主たちは、両家のどちらかの傘下に入ることで、存続を図りました。
こうした中で田村氏は、伊達氏とは一定の関係を保ちつつも呑み込まれることはなく、また、芦名氏とは戦場で互角に渡り合うという特異な存在でした。

1570年代の勢力図

田村氏の動向

天文11年(1542)、陸奥国守護であった伊達稙宗と嫡男・晴宗の間で争いが起き、周囲の大名たちを巻き込んで天文の乱に発展します。当初は芦名盛氏や田村隆顕、相馬顕胤らの支援を受けた稙宗方が優位でしたが、田村氏と仲が悪かった芦名氏が晴宗方に転じると、晴宗方が優勢となり、同17年(1548)に将軍足利義輝の仲裁で和睦します。この結果、稙宗は丸森城(宮城県丸森町)に隠居し、晴宗も伊達氏の本拠を桑折西山城から米沢城に移しました。そして翌年、相馬顕胤の娘・喜多が、津島・葛尾・古道・岩井沢の4个村をたずさえて、隆顕の嫡男・田村清顕に嫁入りしました。
その後、一度は芦名氏に敗れ安積・岩瀬郡から撤退した隆顕ですが、永禄2年(1559)に今泉城(旧岩瀬村)を攻め取ると、叔父の月斎を城代として安積・岩瀬攻撃の拠点とするとともに、南から侵攻してきた佐竹氏に対しては芦名氏と連携して対抗しました。

愛姫の誕生から嫁入りへ

喜多の嫁入りから19年が経った永禄11年(1568)、愛姫が生まれました。隆顕の死後も、清顕は安積郡各地に勢力を拡張しましたが、これをよく思わない芦名氏は、佐竹氏と組んで、二階堂、石川、白川、岩城氏らと連合したため、田村氏は周囲を敵に囲まれるようになります。こんな時に、伊達輝宗の嫡男・藤次郎政宗の噂を聞いた清顕は、12歳になった愛姫を伊達家に嫁がせようと考えるようになっていきます。