戦国大名田村家と愛姫

戦国大名田村家

田村氏は、征夷大将軍の坂上田村麻呂の子孫(※1)を称し、現在の三春町に田村郡の鎮守である大元帥明王(現在の田村大元神社)を守山(郡山市田村町)より、菩提寺の福聚寺を八丁目(郡山市日和田)から移し、城下町の基盤としました。
田村氏は、小さな国人領主のひとつでしたが、一族をまとめて田村郡内を統一し、さらに勢力を拡大して戦国大名へ発展しました。

福聚寺の門前地区は、「御免町」と呼ばれており、寺の勢力範囲内では、大名の権限が免じられたことに由来すると考えられています。しかし、これでは地域を均等に治められないので、田村隆顕は寺に対して12か条の規則を申し渡し、その後、清顕が3か条を追加して、権力強化を図りました。この2通の古文書を「田村氏掟書」と呼び、武家と宗教勢力がしのぎを削る様子を伝える貴重な資料として、県の重要文化財に指定されています。

『奥羽永慶軍記』という江戸時代の歴史的な読み物では、清顕について「文武ともに兼ねた人」と評しており、田村氏は合戦に明け暮れていたわけではなく、神仏を尊びながら、領内の平和と安定に力を注いだ大名であったと推測されます。

(※1) 坂上田村麻呂から4代目の古哲が田村を名乗り、古哲から16代目の田村輝顕(輝定)が福聚寺を開いています。

田村氏掟書

が弘治3(1557)年に田村隆顕が出した12か条で、が天正10(1582)年に息子の清顕が3か条を追加したものです。2通とも「福聚寺へ進献」という極めて丁寧な言葉で結ばれていますが、内容はとても厳しいものです。

城下町三春と愛姫

三春町が城下町として歩み始めたのは、永正元(1504)年に田村義顕が城を築いたことで、城下町として発展したといわれています。

しかし、それより前の正応2(1289)年に法蔵寺が開山されたと伝えられ、南北朝時代初期の古文書には「御春輩(みはるのともがら)」と呼ばれた武士団を見ることができます。これを裏付けるように、城山や町の中心部を発掘すると、14世紀から15世紀の瀬戸や常滑、中国の焼き物の破片がたくさん見つかります。このことから、三春には鎌倉時代以降、宗教者や武士、さらに彼らの暮らしを支える庶民が暮らすようになり、そうした人々を取りまとめ、新たに城を築いたのが田村氏だったのだろうと考えられます。
また、あまり知られてはいませんが、このころ、亡くなった義父に代わって南北朝の争乱に兵を出して、後醍醐天皇から七草木村の領有を認められた女性もいました。

そして、今から450年前の1568年に愛姫が生まれます。愛姫は、義顕の孫・田村清顕と、その妻で相馬家出身の喜多(あるいは於北)の一人娘でした。ほかに伊達家出身で小宰相(あるいは御東)と呼ばれた祖母・田村隆顕夫人もおり、大勢の親戚や家臣たちの愛情を一身に集めて、愛姫は三春で育ちました。

数え年で12歳になった愛姫は、わずかな侍女たちを伴い、米沢城主・伊達輝宗の嫡男・政宗の元へ嫁ぎます。これは父・清顕から託された田村家の存亡をかけた嫁入りで、この重責を果たすことに、愛姫は生涯を捧げることとなります。

奥州三春田村家城絵図

江戸時代に描かれたもので、あまり信頼はできませんが、三春城を中心に重臣たちの屋敷や、寺社、町屋などが三春に整備されていたことが推測されます。

田村清顕時代の福島県付近の勢力図

田村清顕時代の福島県付近の勢力図

  • 天正年間初期頃(1570年代前半)