愛姫の死

身辺整理

この年は、嫡男で伊達家当主の忠宗も江戸で正月を迎えました。陽徳院は前年から体調を崩しており、18日以降は痢病と記録され、連日十五・六回の激しい下痢に襲われたようです。22日には将軍・徳川家光から、お見舞いの使者が訪れており、これは当時の女性として特別な待遇です。

また、この日は遺言を残したり、形見分けをするとして、身の回りの品々の整理をしました。侍女のおさごが、西舘様(長女・五郎八姫)への形見がないと陽徳院に尋ねると、残った物は西舘に全部やると答えました。しかし、一般的な女性への形見である化粧道具がもうないと尋ねると、既に西舘は仏の道に入っているので必要ないと答え、遺品や葬送の道具をひと通り確認し、あとは忠宗に任せると言ったそうです。

陽徳院の死と入棺

24日午前9時頃、陽徳院は86歳で亡くなりました。毎月の命日に供養が行われるため、政宗と同じ24日に終わって、毎月一緒に供養されたいという陽徳院の願いが叶いました。

遺言により、身近に仕えた手水番の手で行水し、入棺は陽徳院付きの医師・氏家紹庵と田村家旧臣・橋本刑部の孫・橋本隼人成信が行いました。

棺は5センチ程の厚い木製で、遺体の状態を保つために、口と耳から約3.6キロの水銀を流し込み、棺内には石灰と炭が充填されました。そして、棺の上から黒い緞子で包み、3本の白練りの絹布を縦横に巻いたといいます。

陽徳院の葬送

棺は雲居和尚に導かれ、26日の夜明け前に供の女中たちの乗物13挺などを従えて江戸を発ちました。2月4日には伊達領に入る直前の貝田(国見町)で、仙台からの出迎えの10騎などと合流し、5日は仙台城下を目前にした中田で供の女中たちに暇を与え、各々親類に引き取られました。翌日、長町川原で一族・家臣たちに迎えられ、午後には松島の陽徳院に入りました。

8日未明に陽徳院住職の禅山祖最が導師、喪主に当たる忠宗の名代を後に田村家を再興する宗良が勤め、遺骸は陽徳院の後の丘に埋葬され、12日早朝から葬礼が行われました。葬礼の役付には、御先打に田母神源左衛門重勝、香箱・橋本兵九郎、御湯・橋本善右衛門、路次奉行・大槻内蔵助清幸、今泉清左衛門定治、御召馬・田村長門顕久、御守刀・橋本隼人成信、御掛真・今泉一右衛門、御押・大越十左衛門など、田村家旧臣と思われる名を多く見ることができ、亡くなるまでに、旧臣の多くを再雇用できたようです。

陽徳院御霊屋・宝華殿内のようす(昭和60年頃)