政宗の供養と田村家の再興

瑞巌寺の復興

生前の政宗は寺社の復興に努め、松島の古刹・円福寺を再建しました。そして、自身の法名である瑞巌寺と改め、菩提寺として整備したのが現在の伽藍です。

政宗の死後、雲居希膺を住職に迎えると雲居を慕う雲水が全国から集まり、伊達家の支援を受けながら、瑞巌寺は繁栄しました。そんな雲居の教えに、愛姫(陽徳院)や仙台にいた長女・五郎八姫(西舘)、2代藩主となった嫡男・忠宗、さらにその子の万千代(光宗)が帰依しました。

雲居は、光宗に次の藩主となるための帝王学のテキストを授け、陽徳院には「栄庵寿昌 」の法号を授けました。しかし、将来を期待された光宗は19歳で亡くなり、瑞巌寺の西隣に円通院を建立しました。

陽徳院の建立

雲居は江戸に上る度、陽徳院に仏道成就の近道を尋ねられたので、「道歌百八」という念仏を作りました。陽徳院が、瞽女(盲目の女芸人)や侍女を集めてこれを唄い踊らせると、江戸の町で評判になり「往生要歌」と呼ばれ、刷り物として広まりました。

漂泊を好んだ雲居は、政宗の13回忌を済ますと瑞巌寺を出て、各地を巡りました。そこで陽徳院は、雲居を落ち着かせるために瑞巌寺の東隣に新しい寺を建てました。これが陽徳院で、1650年の落慶法要に京都で作らせた陽徳院の木像を開眼しました。さらに、政宗の17回忌の1652年には、文禄の役に出陣する若き甲冑姿の政宗を木像に刻ませ、瑞巌寺に奉納しました。

陽徳院木像

田村家の再興へ

田村家旧臣の多くは、政宗に騙されて田村家が改易されたと考えていました。このため、田村家旧臣は伊達家が引き取るはずでしたが、伊達家を頼る者は少なく、他の大名家に仕えるか、多くは武士をやめて地元で農家になりました。しかし、政宗の死後、陽徳院が伊達家の実質的な最高実力者となったので、多くの旧臣たちが伊達家に仕官しました。

1637年に忠宗の側室・房が、亀千代を生みます。これが後に田村家を再興する宗良ですが、当初は政宗の功臣だった鈴木元信の名跡を継ぎ、鈴木宗良となります。その前年(政宗が亡くなった直後)の夏、陽徳院は、徳川家の血を引く正室ではなく、側室の房が子どもを授かった夢を見ます。そして「めでたく めでたく 色良き花の枝をこそ見る」というメモを書き、房に贈りました。わかりにくい内容ですが、後に田村家を再興する孫を花に、その親である房を枝に例えて、房を讃えた歌ではないかと考えられます。

陽徳院夢想書付