伊達政宗の死
仙台下向
寛永12年夏、政宗は仙台へ下りますが、江戸の屋敷が火災で焼失したため、急いで新築させるからしばらくは狭い所で我慢してほしいと愛姫に伝えています。
年が明け、江戸参勤が近づくと、体調不良をおして連日連夜、重臣たちの屋敷を訪ね廻ります。そして、出発の直前、実母・義姫の菩提寺落慶祝いの帰りにホトトギスに誘われて入った山を自身の墓所と定め、それが現在の仙台市経ヶ峯の瑞鳳殿です。
江戸参勤
政宗は途中、日光東照宮を詣でますが、奥の院へ登る石段で転んでケガをし、これが最後の参詣という家康からのお告げだろうと涙を流したといいます。
嫡男・忠宗が途中まで迎えに出て、江戸屋敷の新築祝いを行いますが、食事はのどを通らず、翌日予定していた将軍家光への挨拶も、3日後に延期されました。
5月1日に江戸城に登ると家光のそばに呼ばれ、病状を心配した家光は、翌日医者を伊達家に送ります。その後、江戸や京都の医者十数人が政宗を診察し、寺社の祈祷も行われますが回復せず、21日には家光が直接見舞いに訪れました。この頃になると、殉死を願う家臣も出て、20人が殉死します。
愛姫との別れ
この間、愛姫は一度も政宗に会っていません。愛姫が会いたいと伝えると、政宗は病気で弱った姿を見せたくないと拒絶しました。そして、政宗は23日に愛姫の元へ、伽羅や巻物を取り揃えて、次のように伝えました。「今回は心を尽くしてもらってかたじけない。そのうち会って礼をしたい。忠宗は孝行だが、若いので思うように行かないこともあると思う。西舘(五郎八姫)は忠宗に従って気楽に暮らして、姉がましく言わないよう伝えて欲しい。忠宗の後継ぎだが、夭逝した虎千代は惜しかったが、万千代(光宗)には無事に育って欲しい。我々の代に大きくした伊達家が末永く繁栄するよう、折々家臣たちに伝えて欲しい。二、三日の内に会って色々話すので、それまでこれで我慢して欲しい。」
政宗の死
翌24日の日の出頃に政宗は亡くなり、遺体はその夜には江戸を発ち仙台へ向かいますので、愛姫はろくに別れを告げることもできなかったようです。道中の大名や住民たちに見送られ、須賀川・郡山あたりでは、集まった三春の者たちがあちこちに平伏して別れを告げました。6月3日に仙台に着き、23日に葬儀が行われ、瑞巌寺殿貞山利公大居士として、翌日経ヶ峯に埋葬されました。愛姫は政宗の菩提を弔うため落飾し、陽徳院と改めました。