豊臣から徳川の世へ
関ヶ原の合戦まで
天正19年(1591)、米沢から岩出山へ引越し途中の村田城(宮城県村田町)で、政宗の側室・新造方が出産します。
これが政宗の長男・兵五郎で、文禄3年(1594)には人質として、伏見に召し上げられます。この年6月、愛姫は結婚15年で待望の第一子を産みますが、女の子で「五郎八(いろは)」と名付けられます。これは、政宗が男子の名前しか考えていなかったから、あるいは次に男子が生まれるようにとの願いから付けられたといわれています。そして、慶長元年(1596)、兵五郎は8歳で豊臣秀吉の養子となり、秀宗と名乗りますが、秀吉が同3年に62歳で亡くなります。
同4年(1599)正月、堺の豪商・今井宗薫が仲立ちとなって、5歳の五郎八姫は家康の六男・忠輝と婚約します。
この伊達家と徳川家の急接近が、その後の政局に大きな影響を与えます。そしてこの12月、愛姫は大坂で嫡男・虎菊丸を産みます。年が明けると政宗は家康から、会津の上杉景勝を攻撃して勝てば旧伊達領を与えるという百万石のお墨付きをもらいます。そこでまず、白石城を攻略します。そして、関ヶ原で東軍が勝つと、愛姫は家康にお祝いの服を進上し、戦況を政宗に報告したようです。政宗はしばらく上杉軍と福島や山形で戦いますが、目立った戦果は挙げられず、居城を南へ移すべきと判断し、年末には仙台城の縄張りを始めました。この年、新造方が権八郎(後の宗清)を産んでいます。
伊達家の江戸屋敷跡
伊達家は幕府の意図もあってか、領国・仙台とは反対の東海道沿いに屋敷を拝領しています。
江戸時代の始まり
慶長6年(1601)、仙台の城と城下町の工事が本格化し、徳川家の城下町である江戸にも屋敷を拝領しました。翌年秋には秀宗が伏見で家康に拝謁すると、人質として江戸へ下り、政宗も江戸に移りました。この年、塙団右衛門の娘といわれる祥光院が政宗の四男・愛松丸(後の宗㤗)を産んでいます。虎菊丸は、同8年(1603)正月に伏見で家康に拝謁すると、2月には愛姫とともに江戸へ移り、徳川秀忠に拝謁します。そして、家康が征夷大将軍に就任すると、政宗は新築された仙台城に初めて入り、岩出山を愛松丸に譲りました。この年、愛姫は卯松丸(後の宗綱)を、家臣柴田氏の娘・於山方が吉松丸(後の宗信)を生んでいます。
慶長10年(1605)、秀忠が将軍宣下を受けるため、政宗も上洛します。翌11年、五郎八姫は政宗と仙台でひと夏を送り、年末には愛姫と同じ12歳で松平忠輝に嫁ぎました。年が明けると家康が江戸の伊達屋敷に御成りになり、生まれたばかりの家康の五女・市姫と虎菊丸が婚約します。この頃、仙台で於山方が長松丸(後の宗高)と牟宇姫(後の石川宗敬室)を生み、愛姫は末子となる竹松丸を生みますが、7歳で夭折します。
喜多の墓所(仙台市・輪王寺)
右の小さな石塔が喜多の墓で、左の大きな石塔は、愛姫の末子で7歳で夭折した竹松丸の墓です。
大坂の陣
慶長16年(1611)、12歳になった虎菊丸は元服して忠宗となり、仙台に初入国します。そして、同19年(1614)夏に、五郎八姫と松平忠輝の新しい城を建設するため、政宗は越後高田(上越市)へ出かけ、冬には大坂へ出陣します。大坂方と一旦和睦すると、秀宗は新たに宇和島藩10万石を与えられて伊達家を離れ、翌年、夏の陣で豊臣家が滅亡します。その翌年(1616)4月に家康が死去すると、忠輝は兄である将軍秀忠から蟄居・改易を命ぜられ、五郎八姫が10年ぶりに江戸の伊達屋敷に帰ってきました。