豊臣秀吉政権下の政宗と愛姫

豊臣秀吉の奥羽仕置き

天正18年(1590)、愛姫は会津黒川(若松)城で正月を迎えますが、すでに豊臣秀吉による天下統一が迫っていました。小田原の北条氏討伐が計画され、東日本の大名たちに参陣が命ぜられます。ここに至って政宗も参陣を決めますが、家中に不穏な動きがあったため、やむを得ずたった一人の弟・小次郎を斬殺して出陣します。6月に秀吉に謁見した政宗は、惣無事(戦争禁止)命令に背いて芦名氏などを滅ぼしたことを弁明した結果、米沢や伊達など先祖代々の領地は安堵されますが、新たに獲得した会津などの占領地は新たに蒲生氏郷が領主となりました。

会津に帰った政宗は、7月には黒川を引き払い、愛姫も米沢に移りました。秀吉は、宇都宮と会津で、東日本の大名たちに領地の安堵や召し上げを言い渡し、小田原に参陣しなかった田村家は取り潰しになりました。また、検地や刀狩りを実施し、各大名の正室と嫡子を人質として京都に住まわせるよう命じました。このため、愛姫は8月に会津で秀吉に対面したのち、北陸から京都へ向かい、秋には秀吉の居城・聚楽第に入りました。聚楽第で愛姫は、秀吉や北政所(おね)らと親しく交流したようです。

しかし、秀吉の近臣・木村吉清が拝領した旧大崎・葛西領(宮城県北部)で反乱が起こり、政宗は蒲生氏郷とともに鎮圧に向かいます。戦闘中に氏郷は、政宗が反乱を操っていると疑い、秀吉に政宗が裏切ったと報告します。このため、京都にいる愛姫たちが偽物だと噂されますが、政宗が人質として出した者なのだから、本物だろうと偽物だろうと構わないと秀吉が断じたといいます。年が明けると政宗は、豊臣政権内の疑念を晴らすために上洛しますが、今度は米沢なども取り上げられ、替わりに反乱鎮圧中の旧大崎・葛西領をもらって、岩出山に居城を移すことになります。

聚楽第跡

現在の京都市上京区内で、北は一条通り、南は下長者町通り、東は、大宮通り、西は智恵光院通りに囲まれた範囲が聚楽第跡と推測されます。

聚楽第の伊達屋敷跡付近

聚楽第周囲は、主に西国の有力大名が屋敷を構え、伊達家は堀川を越えて東の御所へ続く中立売通り沿いで、主計町の名が残る加藤清正屋敷の東、最上家の西隣を拝領しました。

豊臣政権下の伊達政宗

政宗はその後、文禄の役で朝鮮に渡って戦闘に参加し、吉野の花見に秀吉と同行するなど、豊臣家を支える大名として活躍し、秀吉の後継者・豊臣秀次と親しくなります。しかし、文禄3年(1594)夏、政宗が久しぶりに岩出山に帰ると、秀次は謀叛の疑いで自刃し、政宗にも疑いの目が向けられます。政宗は急遽上京して弁明に奔走し、重臣19名による豊臣家への誓約書を提出することで罪を免れますが、秀次の居城だった聚楽第は破壊され、新たな後継者・秀頼の居城となる伏見に愛姫も引越します。また、重臣たちの妻子を含めた家臣千名が人質として伏見に住まわされ、伏見に伊達町と呼ばれる広大な屋敷が建設されます。政宗は関ヶ原の合戦まで5年間、上方から1歩も出ることはできませんでした。

伏見の伊達屋敷跡(海宝寺と木斛)

伏見城下の伊達家上屋敷付近には、「桃山町正宗」という地名が残されており、海宝寺の境内には、政宗が植えたという木斛の古木があります。

聚楽第の愛姫

聚楽第での愛姫の様子を伝える資料として、孝蔵主(こうぞうす)が伊達政宗に送った手紙が残されています。孝蔵主は、秀吉の正室・北政所の上臈(じょうろう)(女官)で、豊臣家の奥を取り仕切った女性です。この手紙は、大崎・葛西の反乱鎮圧中の政宗が、豊臣家を裏切ったとの情報が京都にもたらされた時期のもので、公式な書状ではなく、私的な手紙の形式をとっていますが、政宗に対する豊臣政権の考えを内々に伝達するものです。手紙の中で、愛姫は「御かもしさま(御母文字様)」と称され、秀吉や北政所と親しくお付き合いしており、食べ物や付き人も秀吉から与えられているとあります。政宗の裏切りについても、秀吉が強く否定し、この恩を決して忘れてはいけないと言っています。また、愛姫をはじめ皆が政宗のために心を尽くしており、秀吉に逆らえば伊達家は滅びるので、早々に上洛しなさいと政宗をさとしています。

伊達政宗宛孝蔵主消息 仙台市博物館蔵