政宗の三春城入城と南奥制覇

政宗の南奥制覇

伊達家の当主となった翌年の天正13(1585)年、政宗は雪が解けると檜原へ攻め込み、会津の芦名氏との戦いが始まります。また、田村清顕から塩松の大内定綱退治を要請されると、8月には小手森城を攻略し塩松を手中に収め、さらに二本松へと向かいます。政宗の攻撃を恐れた二本松城主・畠山義継は、10月に政宗の父・輝宗の元へ投降しますが、逆に輝宗を拉致したため、政宗と乱戦になり、輝宗・義継とも討死しました。政宗は父の仇打ちとして二本松城を包囲しますが、救援に来た佐竹・芦名氏らの大軍と人取橋(本宮市)で激戦となり、辛うじて大敗を免れた政宗は、小浜城で年を越します。

勢力図の変化

  • 天正年間初期頃(1570年代前半)
  • 天正17年(1589年)摺上原の合戦前
  • 天正18年(1590年)奥州仕置前

翌年も政宗は二本松城を取り囲み、畠山家中を少しずつ取り崩します。そして、相馬義胤の仲介で、義継の遺児・国王丸が7月に会津へ退出することで安達郡を収め、久しぶりに愛姫の待つ米沢に凱旋します。しかし、11月には田村清顕が急死し、田村家中は未亡人の喜多を中心に、田村月斎・梅雪斎・右衛門、橋本刑部の四宿老により運営され、重要案件は政宗に諮ることになりました。

この年末に芦名亀王丸が夭逝したため、翌年、佐竹家から義広が養子に入り、芦名・佐竹家が一体化します。田村家では、月斎、刑部ら伊達派と梅雪斎、右衛門ら相馬派が対立し、政宗夫妻が不仲だという噂を聞いた喜多も実家の相馬派に傾きます。そして天正16年、相馬義胤が叔母である喜多への面会と称して三春城入城を図りますが、橋本刑部の機転で阻止されます。その後、政宗は佐竹・芦名連合軍との郡山合戦を終えると三春に入り、喜多を船引へ、梅雪斎、右衛門らを小野へ下し、清顕の甥・宗顕を三春城代にして、三春は事実上、伊達領となりました。

翌年、相馬・岩城・佐竹氏らが一斉に田村領に攻め込み、夏までに門沢・大平・常葉城までが落とされます。そんな中、政宗は摺上原で芦名義広を破って会津を占領し、さらに政宗の伯母・大乗院が籠る須賀川城を攻め落としました。これにより、年末までに石川・白河・岩城氏も配下に加えて南奥羽を制覇し、愛姫たちも黒川(後の若松)城に移って天正18 年の正月を迎えます。