色よき花の枝

田村家菩提寺
福聚寺住職 玄侑宗久

今年は愛姫の誕生した永禄11(1568)年から数えて丁度450年の節目に当たる。

当時、城下町三春の環境は整いつつあった。戦国大名にとって寺社は重要な施設だが、田村義顕はすでに永禄2(1559)年、多くの大名たちと同じように関山派(現・妙心寺派)の禅僧天心智寛を福聚寺に招き、その晋山式のために手書き大般若経六百巻を寺に進献している。経典を手書きで写したのは17人の僧侶たちだが、建築費用だけでなくそうした費用も田村家が拠出したわけだから、相当の力をもっていたのだろう。

時代はやがて二代隆顕から三代清顕に移り、福聚寺には「駆入御免」を認めつつ、田村家も中通りでの地歩を築いていく。おそらくはそんな時代、義顕が愛でた滝桜の子孫木も寺社や館などに植えられていったのだろう。福聚寺には田村家守護仏とされる十一面観音堂があるのだが、丁度その観音堂の正面から枝垂れ桜の花影が最も美しく見える。思えば桜の推定樹齢もほぼ450年。もしやこの桜は、愛姫の誕生を記念して植えられたのだろうか。そんなことを思ってしまうのも、「陽徳院様夢想之書付」のせいかもしれない。

愛姫が生まれて10年後の天正6(1578)年、近隣の情勢はすでに不穏だった。清顕の旗下にあった塩松大内氏、二本松畠山氏などが次々に離反して蘆名方に転じ、永年抗争を続けてきた伊達・相馬は相変わらず火花を散らしあう。母を伊達氏から、妻を相馬氏から迎えた清顕にすれば、なんとか両家の友好を取り持ちたい。そこで清顕は両家の調停を続ける一方で、伊達との関係を優先し、一人娘を伊達家の梵天丸(後の政宗)に嫁がせ、田村家の命運もその婚姻に託すことを決断した。翌天正7(1579)年11月、満で11歳の愛姫は、雪の小坂峠と二井宿峠を越えて三春から米沢に輿入れした。旧暦11月の峠は雪だったに違いない。

伊達家に嫁いでからも「田村御前」と呼ばれ、後継が途絶えたことを嘆く愛姫は、夫政宗やその子忠宗にも田村家の存続を懇請した。父清顕の願いは、次男または三男に田村家を継いでもらうことだったが、長女五郎八姫の他に忠宗、宗綱、竹松丸と三人の男児を産みながらその夢は叶わず、遂に愛姫は孫の誕生を夢告げで知るほど思いつめていた。夢の内容を「いろよきはなのゑたをこそみる」と書いたのが件の夢想之書付である。

跡継ぎの誕生が、なぜ「色よき花の枝」を見る、なのか。
私の勝手な推測だが、それは少女時代に故郷三春で見た、滝桜や子孫木たちの面影ではないだろうか。毎年「色よき花の枝」を見るたびに、私はそんなことを思う。結局再興された一関田村家で子孫木として花咲いたのは愛姫の孫(忠宗の三男)宗良だった。

陽徳院様夢想之書付

三春町歴史民俗資料館に収蔵されているレプリカ(本書は一関市博物館で所蔵されている。)

愛姫の生誕を記念して植えられたのではないかとも考えられる推定樹齢450年の「福聚寺桜」。
「愛姫桜」とも呼べるものかもしれない。